昭和49年2月16日 朝の御理解
御理解第62節「昔から人も良けれ我も良けれ、人より我がなお良けれと言うているが、神信心をしても、我が身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ、神信心も手習いも同じこと、一段一段進んで行くのじゃと、みわかに先生にはなれぬぞ」と。
一段一段と、信心を進めて行って、え~、やはり、先生になることを、が、私は、あぁ、神様の願いでもあると思う、先生ということは、まあ私ほどお道の教師といったような意味ではなくてです、ね、先生とは先に生まれると言うのですから、後身の者を導いて行けれるというような意味で、聞いて頂きたいと思うですね、後からもまた信心の道を辿ってくる人達に、教えてやれるくらいの信心、それには自分が一段一段と進んで行かなきゃならんのです。
★今日私、ある方の事をお願いしよりましたら、え~、映画館なんかにまいりますと、こんなに階段が、段々上に、高くなってますね、下からこう上へ高くなってるでしょ、観覧席が、あの、を、段々高くなってるところを、洋服の上着をこう、脱ぎながらね、こうやって上着を脱ぎながら上に登って行くところを頂いた、その丁度上に登って行く姿がね、丁度こう、こう洋服を脱ぐ時に、後手に、こう、なる感じでしましょう、丁度、まあ言うならば、後手に縛られるといったような感じです、段々と登って行きながら、洋服をこうやって、いわゆる脱いで、こうしとる時には、丁度手が後手に回っておるような感じですね、まあ言うなら大変な事でございましょうけれどもです、あの、そういう、時に、むしろ階段を上がってる時、信心を一段一段登っておる時、自分の身の皮をはいでと言うような、信心をいよいよ本当に出来る時だと、そこんところを大事にしなければいけない。 ★●これも昨日私はある方の、を、お願いをさして頂きよりましたら、こんな句を頂いた、「冬川のみよし降り降り繋ぎ船」という句を頂いた、ね、今難儀なところにその方は立っておられます、冬川というのは、もうどこ、あの冬の川というのは、水が枯れる、水が少なくなるわけです、いわゆるお恵みの水が少なくなる、だから言うならば、繋ぎ船と言うかね、えぇ、まあ、あぁ不自由な、ところを通っておるということです、けれどもそれはね、過程なんです、信心を進めて行く過程なんです、冬もありゃぁ春もある、夏もあるというわけです、ね、だから問題はそのみよし降り降りで、先日からもあの頂きました御理解の中にもあっ、頂いておりましたようにですね、本当にその川の流れに、沿うて行けば良いのですけれども、ただ合楽なら合楽という大きなおかげの、お恵みの、おかげを受けておる、この姿、教会の姿というものをです、見ておるだけであって、その中に合流してない、ね、私とあなたは川端柳、水の流れを見て暮らす、で、とにかくただ、おかげの大きなおかげの姿というのを見ておるだけであって、それに合流しようとしてない、私は金光教の信心を頂いておると言うけれども、頂いておるのじゃなくて、見よるとだと、ただ聞きよるだけだというような感じがしますね、本当にその中に合流するというね、そこに身を委ねてしまうというということです、それが、私は信心になることだと思うんです、そこでこれは、えぇ、人より我はなお良けれ、良けれと言うが、神信心をして我が身の上におかげを受けてとこう仰るのですから、ね、信心するほとんどの人が、まずおかげを受けたいので、信心をするのであります、そしてそのおかげが、「いやぁなるほど信心じゃなぁ」「神様じゃなぁ」「これがおかげというものじゃろうなぁ」という風に、段々分かってくるのです、この62節の、前、前提、61節の、一番最後のところに、「神より上になるとは思うな」とこういうお言葉がありますね、61節の一番最後のところに、これはまあ色々に頂かなきゃなりません、とにかく慢心をするなということでございましょう、どんなに信心が進んでも、ね、ただ、あの慢心をしてはならんぞというような意味でございましょうけれども、私は神より上になるということは、う~ん、信心をさして頂く当初の間は、結局神様より上になっとるような感じですね、神様を使うばかりでしょうが、「どうぞ集金に行きますけん、どうぞよろしくお願いいたします」ね、「どうぞ体が悪いからよろしくお願いします」丸っきりお医者さん代わりにしたり、集金人にしたり、したような感じでしょうが、ね、これはしかし神様もまた、ある意味では喜んで使われて下さるのです、ね、願う氏子におかげを授けと仰るのですから、おかげを授けて下さるのです、けれども、そこんところの、おかげを頂いてなるほど、間違いのない神様だなぁと段々分かってきたらです、私は人を助けて、やれと仰るところの信心が出けなければならない、ね、いわゆるにわかに先生にはなれませんけれどもです、一段一段と、様々なところを通り、それは場合によっては、手が後手に回るような難儀な不自由な思いをしなければならない時であってもです、それ、自分の身の皮をはいで行きながらでも、信心だけはどんどん、前進しておる、進んでおるという、生き方になってこそ、初めて私は先生を、先生を目指すということは、お道の教師の意味ではありません、ね、先達としてです、後身の人達に、信心を導いてあげれれるくらいな信心にです、お互いが進んで行かなきゃいけません。
今毎日、日田から、ここ、おぉもう二ヶ月ぐらいでしょうか、日参をなさる方があります、ホテルを経営しておられます、今日はちょっと、あぁ、宮崎の方に行っておられますから、今日はお参りしておられませんけれども、え~、お仕事が、お仕事ですから、奥さんがホテルをして、自分は他の仕事をなさっておられる、それで、その自分の仕事を終わってですから、どうしても、この寒修行には、夫婦で毎朝、あのお参りしておられまして、で今は、丁度御祈念が終わった頃参ってこられるんですけれども、本当にそのおかげを受けられるんですね、先日も、その、こうしてホテルを経営するようにならせて頂いたら、なかなか夜昼無しの商売ですから出られません、それでもやはり、「どうかしてお参りしたいっち言うて家内が言いよりますから、どうぞ、お繰り合わせを頂きますように」と言うてお願いしとった、ところがそのよくっ、翌日、「先生こんな事がありましょうか」と言うてお届されるんです、もうお願いをして帰りましたら、日はもう、昼から夜まで、とにかく言うならば、二日分の、おしょっ、商売が繁盛したそうです、そしてです、その翌日はもう一人もなかったそうです、だから泊り客がないから、どんなに早うでも出てこられるわけで、おかげでそのよく、翌日は夫婦で揃ってからお参りしておられます、こんな事があるでしょうかっち、で神様が、本当に、あの願うとそういうことなんです、昨日、一昨日は、その、ここで、いわゆる真の信心、真の信心と言いよるけん、さあ真の信心がどんなことかも分からんは、それこそおぼろげながら、まだ要約一・二ヶ月の、信心ですから分かられるはずはないけれどもです、「どうぞ親先生があの真の信心を頂け、分かれと仰るから、真の信心を分からして下さい」っち言うてお願いしよった、そしたらね、この、言われるのに、こうやって拝みよるととの、この畳との間にこうやって頂いたとこういうわけ、御心眼を頂いておるわけです、それがね石ころの道をずーっとこう、その、キューピーさんがね、あの歩いて行きよるところを頂いた、トコトコトコトコこうやって歩いて行きよる、はぁ危ない危ないと思うて見よると、その、こちらは断崖になっておるごたるとこの、ほんの道の、その、一歩間違うたら落ちるような所に、行くトコトコトコトコとこう歩いて行った時に、誰かは分からんけれども、大きな手で上から、こうとっ掴んで道の真ん中にこう出して下さったところを頂いたっち、まあ色んな意味で、え~、まあそれこそ、まあ難しいところを通っておられるわけでございますけれどもです、ね、キューピーさんというのは、可愛らしいということだと思うのです、どうでしょうか、皆さん本当に例えばこの問題を通して、真の信心を分からして下さいと言うて、祈ったらもう絶対問題はなくなりますよ、ね、例えばどういう難儀な問題があっても、その中から、真の信心を分からして下さいと願う、願うたらね、問題がなくなるです、はぁこれによって真の信心を分からして下さるんだということになるでしょう、ね、ところがそういうことは、いよいよになると、忘れてしまって、どうしてこんな難儀な事を、とこういうことになって、言わば、信心が、そん時に一段一段進まなきゃならんのに、進まないことになるのです、ね、ですから、それはまあ本当にこれやしこったいとこう申しますでしょう、ね、そげん簡単にお前がまぁだ二ヶ月どん参って真の信心ってなんてんそりゃ難しいことじゃけど、まあおかげ信心からでもええ、お参り信心からでもええけん、さっさと参って来いと言うとこでしょう神様は、けれどもその、言う言葉でこえらっしゃる、真の信心を分からして下さい、親先生が真の信心を頂かにゃと仰るから、その真の信心を分からして下さいと言うて、願わしてもらいよったら、そういうお知らせを頂いたとこう、言われるんです、ね、本当に真の信心ということはですね、確かに問題がなくなりますですね、昨日も、丁度八時の、おぉ、御祈念が始まっておりましたら、半ばに、これは遠方から、夫婦でお参りしてみえました、此方は、まあその土地の顔役です、百人から、言うならば、まあ言うっ、まあぁ、分かり易く言うなら子分とでも申しましょうかね、まあ大変なまあ親分です、土地の、おぉ、芸者置き屋なんかをなさっておられる、それが丁度、お、二ヶ月前に、ある事、ある事件のことで、参ってみえられた、それでその、ん~、その、その、自分の思うようにならずに、思うようにどんどんならないもんですから、奥さんから、どこかこう、せめられなったでしょうね、金光様の、こうしてお参りしてこうじゃと、それで昨日はその奥さんを同道して参ってきておりました、それでまあ言うなら先生に、ね、思いよる、例えば私にです、ね、どういうわけにそういうような事をするかと、ね、彼の方はおかげを頂いたじゃろうばってん、自分の方はまあ踏んだり蹴ったりじゃないかと言うわけです、そんために沢山な金も使うた、それに願い、願いと言うか、その事は成就していない、ね、今日はいっちょ本当に、あの、まあ、言うなら自分が合点の行くように話をしてくれ、と、言うのが第三者の方に対する、願いであり、私がおる時にだから時間がかかるからゆっくり、面接してくれということだった、それで昨日奥様と二人でみえられました、それで、えぇ、ここではなんですから、私の、おぉ、居間の方へまいりまして、ね、昨日も電話がかかってきとったけども、私の丁度留守中に、私は昨日久留米にまいっておりました、それで、えぇ、ん~、まあ夕方までには帰ってみえるだろうからというので、まあ昨日夕べみえたわけです、皆さんもあのご承知のように、あの、金光様の御直筆の「心」という字を、あの書いて下さってあるのを、その、東京の双葉の、おぉ、方にそれが来とりましたから自分とこにあっても宝の持ち腐れだからと言うので、ここへ持ってきてお供えしておられます、でそれをあの表層にやっとりました、それ、それがもう昨日でなきゃにゃ出来ませんでしたから、昨日あの高橋さんの車に乗せて頂いて、それ頂きに行った、それから私はお茶でも上げながら、それからそこへ、あの、「今日はこれが出けてきました」と言うてそのかけて見せました、したらね、「はぁ~これは丁度私があの二ヶ月前に来た時に、先生がおられなかったです、はぁ(?)せっかくこんな問題では、えぇその、たまたま(?)に来たのに、先生がおられんと言う、言うので、さあ帰ろうかと言うて、表まで帰りかかっとったら親先生が帰ってみえた、そしてから、今日はああた実はこういうような、あのひょうっ、表層屋に行って、これを頼みに、それを頼みに行ったということを、言われたが、丁度私が来た時も、これを頼みに行き、そしてまた今日今晩来ておることも、これが出来あがった時に、これは私は心というものによっぽど感心を持たなければいけんことでしょうね」とこう言われるんです、それから私は、その、あぁ、それに対する答えも、またそれに対する、言うておられた質問も全然ない、まあ一時間か、ここ二時間もおられたでしょうけれども、全然その事に触れられないです、もう大変におかげを頂いて、もうそれこそ、まあ神様の素晴らしさ、間違いなさということにね、もうあの、ほとほと感心して、「また家内と一緒にお参りさせて頂きたい」と言うて帰られました、だからね、私はその方に申すんです、あの信心させて頂いておるとですね、問題を問題にしてという、など言うけれども、本当にいわゆる真の信心を目指すとね、もう問題はなくなるというのです、「今日は実は私はここへにて、先生とお話しとるけん心がスッキリしました、お前も、をぉその分かったじゃろう」と言うて奥さんに言うておられました、ね、別に私は信心の話をした(?)ない、それはこういうわけでしたとて、言い訳をしたことでもなかった、ね、ただそうやって、その一時間なら一時間あまりの、言わば、雑談的なお話しをさして頂いておる内にです、ね、それがです、例えばその神様の間違いなさといったようなものをです、ね、私は実はそれ昨日(?)、ところが昨日はちょっと行かれない事情が出けて、ね、例えば、あっ昨日じゃない一昨日、それで昨日まいったわけでしたけれどもです、もうその辺のところの、まあ二ヶ月間の間に、その方の問題の、上にもです、もう微に入り細に渡って、神様の御演出があっておったというようなことをです、やっぱある意味で悟られたわけですね、「本当に神様っちゃ有り難い信心ちゃ有り難いもんですなぁ」と言うてその、ん~、まあそして私も昨日はもう大変な本当に、ほぉそういう世界がまぁだあるのですかというような、まあ大変なお話を聞かせて頂いたんですけれども、ん~、いわゆる、問題が、ここへ参ってくることによって、普通で言うならば、私を、まあとっちめてやるというような、気持ちが十分にあったんです、ね、自分が損したもんだから、ね、相手は助かっとろうばってんから、自分が損した、だから家内に対してにでも言い訳なかった、だから家内まで連れてきてからいっちょ、その話を聞こうということだったけど、その話は、私も、全然触れもしません、主本人もまた、その、掛軸の「心」の、そのことから、色々とお話さしていて、えぇ、と言うてもその、あの、雑談的なお話しでしたけれども、おかげを頂いた、もう心がスッキリと、おかげを受けて、帰られた。
お互いにです、おかげを頂かしてもろうてです、ね、例えば昨日、それこそ難儀な、ところへ立っておる、その人のことをお願いしよったら、「冬川のみよし降り降り繋ぎ船」である、今はお恵みが、切れかかっておると、それは例えば不信心だからというわけでもないでしょうけれども、ね、いわゆる、ね、毎日お参りをさして頂いておるけれども、その中に合流するということじゃなくて、ただ素晴らしい神様の働きを、ね、見ておるだけの信心であることに、気付かせてもろうて、その中に合流する生き方になりゃ、それは、ね、冬川の恵みの水が少なくなっておる中にでも、そこに繋ぎ目的な、ことにはならないですむおかげも受けられる、ね、または、ならこれを待てば、また豊な水がいっぱいになって、その繋ぎ船(?)て、ね、おかげを頂くこともありましょうけれども、その、お恵みが少ない時こそ、ね、自分の手を、後手に回ってふいっ、いよいよ不自由を感ずる時ほど、私は信心は上に一段一段進んで行かなければならない時だと思います、ね、お恵みの水が少なくなった時ほど、本気で信心をさして頂いて、それこそ、日田から参ってみえるその坂本さんという方ですけども、じゃないけれども、どうぞわけは分からんなりにでも真の信心を分からして下さいというようなです、信心に、ね、入って行かなければならない、そこんところがです、ね、お互い大事じゃないでしょうか、そりゃ分からん、真の信心なんか二ヶ月三ヶ月で分かろうとは思われんけれども、ならおかげを頂き頂き、まず我が身におかげを受けてと仰るから、そのおかげを受けて、神様の間違いなさが段々分かってきたら、そこんところの堤防に誰か立っとくだけじゃない、流れを見ておるだけではなくてです、本当にそこに合流する、ね、その大きな川の流れに合流する、信心をさして頂くことからです、真の信心は成長して行くのです。
「にわかに先生にはなれん」と仰るけれども、にわかじゃないないでれけれども、段々先生になれれる、私信心をして行かなければ駄目だと思います、ね、先生とは、せっ、いわゆる、若い信心の方達の、誘導、ね、導き、ね、お手伝いが出けるような信心に進んで行かなければならないということであります。
先ほっ、その、おぉ、申しました、ある方の、熱心な信心を、なさっておられる、けれどもその上着を脱ぎ脱ぎ、こう階段を登って行かれる、丁度その階段、お洋服をこう脱いでおられる姿がです、いかにも後手に、こうやって手が回っておるような感じで私は頂いて、あらっと思うくらいであった、ね、言うならばいよいよこれは窮屈になられるなぁという感じであった、けれども、ね、そういう時ほど、なら階段を登っておる、信心も一段一段返って登っておる、今まで分かれなかった、言わば、信心の奥賀へ進んで行けれる、時期を頂いておる時である、ね、上着を取るということは、言うなら身の皮をはいででも、真の信心を進めて行こうという時じゃなかろうかという風に思うのです。
「神より上になると思うな」と61節の最後にありますがね、始めの間は、言うならばおかげおかげという、おかげのために参って来るのは、これは神より、まあ言い方、がちょっと、おぉ、変ですけれども、いや神より上になっておるようなものではないでしょうか、ね、「どうぞ集金に行きますからよろしゅうお願いします」「どうぞ病気ですからよろしゅう」丸きり、神様をお医者さんか、ね、集金人のように思うておるのですから、神様を使っておるばかりです、ね、神様から使われようとはせずに、神様を、使うだけの信心の時には、私は神より上になっておるんだと思います、けれどもです、それは信心が分からんからしかたがないのですから、坂本さんじゃないけれども、そういう中にあっても、なら真の信心を分からして頂きたいという、願いをさして頂くようなところからです、真の信心を分からして下さる神の働きが始まる、ね、そこから信心は一段一段進んで行くのであります、にわかには決して先生になれませんけれども、やはり先生になることを、目指さなければいけません、先生というのは、お道の教師というような意味ではありません、ね、言うなら信心の先輩、後輩の人達にです、ね、合点が行くように、導いてやれれる、お話でも一つもさして上げられる、ね、人が助かって行かれるような働き、そこんところにです、神を使うのではなくて、神様に使われる身分ということになるのです、ね、神様に使うて頂く身分に、ならせて頂かなきゃならん、使うて下さいと言うても、力がなからなければ、神様は使うて下さるわけにはいけません、ね、ですからそういう、(ふにゅい?)な時にです、それこそ冬川のというような時にです、私はいよいよ、良い信心を身に付けとかなければいけないと思うですね。
どうぞ。
入力者:誠輝